" /> (後編)MV版『When I’ve Got You』by ディマシュ/感想+妄想考察 | 妄想的ディマシュ・クダイベルゲン研究所

(後編)MV版『When I’ve Got You』by ディマシュ/感想+妄想考察

MVの感想


『前編』からの続き

起稿:2024年2月28日~3月6日
脱稿:2024年3月8日
編集:2024年3月16日、4月21日

【MVストーリー解説B:「ディラキュラ伯爵」の視点の物語】

《彼女のマジック》

 『前編』の彼女のストーリーのところで、ディラキュラ伯爵のことを書かなかったのは、故意です😅
 というのも、ディラキュラ伯爵がホントは主人公ではないということと(主人公は彼女)、伯爵の心理描写は、音楽が担当しているみたいな感じだったからだ。
 なのでこの項目の前に、『前編』で音楽(サウンド)について読んでいただいた。

 さて、である。
 もしも彼女がこの屋敷を訪れたのが「2度目」なら、ディラキュラ伯爵は彼女の意図を察しているはずだ。
 1度目のインタビューの時、彼は彼女が自分に惹きつけられるようにマジックをかけてもいたからだ。

 彼女がノートに鉛筆でグルグルと描き出す前に、ディラキュラ伯爵の若き日の肖像画、おそらく彼がまだ人間だった頃の絵姿が映される。

       「もっと若くって、もっと新鮮で、もっとハンサムだった」頃の伯爵
        ……香港ライブでのご本人の発言より

  伯爵はこのあたりで、自分の中のもうひとりの自分と葛藤を始めたのだろうと思う。
 もうひとりの自分とは、人間だった頃の自分、善を知り、愛を知っていた頃の自分だ。

 ヴァンパイアには人間とは違う行動原理がある。
 自分を生存させるための「生贄」を求め、それを見つけ出して捕食する。
 要するに、人間の「天敵」としての行動だ。
 しかしそれは、捕食される側の人間が想像する以上に切実で、生死にかかわる問題だ。
 吸血鬼である彼にとって、最適となる血の持ち主の判断基準は、おそらくだが、彼自身がその女性に恋心を感じるかどうかなんだろうと思う。なんとなくそういう気がする。

 そして、途中まで伯爵は、彼女を自分の世界に引き入れるつもりだった。
 なぜなら、彼は彼女に本当に恋をしてしまったからだ。
 世間では謎のカーテンの向こうに住む、謎の人物として有名らしい伯爵。
 好奇の目で人は彼を見るが、彼には「吸血鬼かもしれない」という噂があって(たぶんね)、誰も近寄ろうとしない。
 そんな彼のもとに1通の手紙かなにかが来て、誰かがインタビューを申し込んできた。
 なんと勇敢な奴だと思い、伯爵はそれを承諾した。
 やって来たのは、つい最近まで女子大生だったような、ジャーナリストになりたての、まだ年若い女の子だった。
 伯爵は、彼女が用意したマイクロフォンと録音機材を前にして、自分について話し始める。
 伯爵は、彼女が持つ「不思議な能力」のために、つい、本音をしゃべってしまった。

「俺のまわりには、鎖以外なにもない」
「俺はこっち側で孤独を感じている」

 ヴァース2で映るインタビュー中の伯爵は、自分の孤独について話す時、自分の両手を顔の前にかざし、嘆くような、今にも泣き出しそうな顔で話をしている。

       話しているうちに自分の境遇への本音を吐露してしまう伯爵

 彼女が持っているらしい、彼の本音を聞き出してしまう「不思議な能力」は、『前編』の冒頭で紹介した写真家のmoon.kudaibergen_2さんが持っている、ディマシュを誰よりも美しく撮影してしまう特殊な才能のようなものだ。

 伯爵は、彼女に誘惑のマジックをかけながら、ある種の女が本能的に持つ「男を陥落させるマジック」にかかってしまった。

《恋に落ちる伯爵》

「俺の居場所を探してる、男たちの世界の中で男として」
 この歌詞は、香港ライブでの初演の時とは、意味が変わる。
「俺の居場所を探してる、人間たちの世界の中で人間として

 ヴァンパイアである自分が、人間のふりをして生き続ける道を探していることを、彼は彼女に打ち明けてしまう。
 そして、彼女の無謀な勇敢さ、世間の噂にびくびくしながらもこの屋敷にやって来て自分に向き合う彼女に、彼は恋をした。
 2度目の訪問で彼女がピアノのそばに来た時、彼は瞬間移動しながら彼女に近づくと、
「おまえは俺の天国への入り口だ」と告白する。
 これってほとんどプロポーズだよね😅

       天国への門を見つけた嬉しさのあまり、会って2度目でプロポーズ、
       しかもその自覚無し

 彼はインタビューの時、こうも言っている。
「俺のことをひとつ残らず、俺の小さな歩みをひとつ残らず見ている」
 例の超絶早口英語の箇所だ。
 伯爵ぅ~、誰かが自分を見てくれてたってことが、そんなに嬉しかったんかい🤣
 もしかして伯爵、エゴサしてんのかい、とも思ったよ😅
 そしてそれを聞いた彼女が鉛筆でグルグル書き出すのだ(笑)

(注:エゴサ=エゴサーチ。ネットで自分を検索して自分の評価を確認すること)

《伯爵が住む世界》

 ディナーの席についた白いドレスの彼女に、伯爵は自分の世界を見せる。
 彼女がその席で最初に見た伯爵の顔や、彼の背後から黒衣の女性ヴァンパイアたちが出てくる時の伯爵の顔は、ちょっと哀しそうだ。

       悩み深く、哀しげな目をした伯爵

 それはそうだろう。
 彼の背後には、6人の女性ヴァンバイアたちがいる。
 食卓のディナーの皿には生肉らしい何かが乗っているが、彼女たちはそれを手づかみで食べている。
 つまり彼らは、ナイフやフォークが出現する(イタリアでは16世紀、イギリスでは18世紀)よりも以前からヴァンパイアとしての生活を続けている、過去の生き残りなのだ。
 冒頭に写ったオオカミの剥製と同じく、絶滅危惧種のようなものだ。
 自分達が現代のテーブルマナーを身につけることなく、いまだに野蛮な風習の中にいる集団であることを、伯爵は彼女に詫びる気持ちを持っているだろうという気がする。

 また、冒頭とディナーの席にいる、執事の男。
 彼が指で合図をすると女性たちが出て来たところを見ると、もしかしたらディラキュラ伯爵を人間から吸血鬼にしたのがこの執事で、身分は低いが、伯爵よりももっと古くから生きている吸血鬼ではないかと思う。

 伯爵の背後に見えている女性たちの揺れる手は、まるで、異教の神の似姿のようだ。
 腕が6本なら「阿修羅像」(→仏教の八部衆に属する守護神、asura)。
 8本なら戦闘神の方の「弁財天」(→仏教の天部に属する守護神の2つの姿のうちのひとつ、Sarasvatī)。
 10本ならヒンズー教の「カーリー神」(→ヒンズー教の戦いの女神、Kali)。
 千本なら「ヴィシュヌ神」(→ヒンズー教のヴィシュヌ派の最高神、Vishnu)か。
 もしくは「千手観音」(→仏教の観音菩薩で、33種類ある姿のうちのひとつ、sahasrabhuja)。
 10本見えているから「カーリー神」を模しているのかもしれないが、この神も阿修羅や8本腕の弁財天と同じく、戦闘や殺戮の神だ。

 彼が彼女を自分の世界に引き入れるつもりなら、自分がそういう殺伐とした異質な世界にいることを、彼女に知ってもらわなければならない。
 それが彼にとっては、やるせなく、哀しいのだ。

(ついでに言えば、伯爵は現代人の若い彼女から「6人の愛人が同時にいるのに、さらに私を狙ってるの? ひどい男ね!」と怒られそうで怖がってる、とも勘ぐれる。んなわけないでしょーけどね😅)

 伯爵は彼女に言う。
 仲間である彼女たちヴァンパイアがいるこの家に帰れば、ここはちょっとした天国だ、そして、
「俺には忠実な味方がいて、一晩中、俺の腕の中」
 ほとんど負け惜しみのようだ。(→注:このMV限定でね)
 プレ・コーラス2で、ディナーの席の伯爵はこう主張する。
「でも正直に言えば、俺はちゃんと生き返る、おまえさえいれば」
 それを聞いた彼女は、「エクスタシーの赤い水」に落ちた。

 そして、天蓋ベッドの端に腰かけた伯爵が、眠っている彼女に何かを語りかけ、歌いかける。
(何度でも言うけど、据え膳食わずに……な)

《「天国へのゲートウェイ」と2人の葛藤》

 このあたりから、画面に抽象的な「四角い枠」、何かのポータルのようなもの(入口、ゲーム的には「転送門」)が突然出現する。
 『前編』の《伯爵のマジック》で少し書いたように、これは「天国へのゲートウェイ」なのかもしれない。

 歌詞の「(The) gateway to heaven」をWikipediaで調べると、
「いくつかのキリスト教諸教派による天国に至る門を指す非公式な呼称」
だそうだ。
(隠喩として別の意味もあるが、それもまた「言わずもがな」なので、皆さんで勝手に想像してください)

 この抽象的な「四角い枠」が赤になったり白になったりしていて、登場人物の内面をあらわしてもいるようだ。
 おそらく「赤い枠」が、伯爵にとっては「ヴァンパイアの心」が入れる天国の入り口で、「白い枠」が「人間だった頃の心」が入れる天国の入り口なのだろうと思う。
 したがって、「赤い枠」は吸血鬼の天国で人間にとっての地獄、「白い枠」は人間の天国で吸血鬼にとっての地獄となる。
 色の違いから考えれば、赤が「エロス(強いて言えば、見返りを求める愛)」で、白が「アガペー(強いて言えば、無償の愛)」とも取れる。
 伯爵は葛藤しているのだ、彼女をヴァンパイアにしてしまってもいいのだろうか、と。

       「ヴァンパイアの心」のゲートウェイ・赤


 伯爵はインタビューの時、彼女にこうも言った。
「おまえは俺に起こった最高の出来事だ」
 この「最高の」の単語の直前、まるで「これが魔法の言葉ですよ?」とでも念押しするかのように、あの「シャララン★」が鳴る。
『前編』の【ピアノのような、効果音のような】で書いた、あの音だ。
 これが「魔法の言葉」なのは、伯爵の本心だからだ。
 あの音はそのゆえに、制作者によってあんなに愛らしく可憐な音に作られたのだろう。

 赤い水のプールから出たあと、彼女は1度目の訪問で聞いた伯爵の魔法の言葉を思い出して動揺し、走って逃げ、ベッドに横たわって眠ってしまう。
 そして、枠が赤になったり白になったりと、伯爵の葛藤も深くなる。

《彼女に誘惑される伯爵の葛藤》

 眠りの中で彼女が自分の「エクスタシー」に目覚め、伯爵を誘惑しようとする時、『前編』の《ギターソロの1》で書いた、あの印象的な「レ♭」が鳴る。
 そして、目を覚ました彼女は決心を固め、伯爵の座っている暖炉の部屋にやって来た。
 伯爵はゴブレットを持ってじっと待っている。
 彼女が夢の中で自分を誘惑していたことを、彼は知っている。
 この時、『前編』《ギターソロの2》「減速する下降スライド」が鳴る。
 彼は今、自分の理性と自制心をありったけ搔き集めている、そういう風に聴こえる。

       じっと待っている伯爵、待っているのは彼女の訪れだけではない


 彼女が自分の背後に近づくのを感じる伯爵。
 伯爵の背中が映った時、『前編』の《エレキギターの種類》内、ストラトキャスターのところで書いた「トレモロアームのトレモロ音」がうっすらと鳴る。
 それはまるで、伯爵のある決意が一瞬、揺らいで震えたように聴こえる。
 もうねえ、こうやって書いてても、せつないわ。

 だがそのあと、『前編』《ギターソロの3》で書いた、主音の半音下である「ソ (G) 」の、ちょっと長いサスティーン音が鳴る。
 伯爵の中に残っていた「善なる人間性」は、一瞬だけ揺らいで震えた自分の心が、ドラキュラとしての快楽 = エクスタシーに行きつく(半音上のルート音に上がる)ことを許さなかった。

《伯爵の決意と、物語の結末》

 そして彼は、彼女の手が彼の肩に触れる「直前」に瞬間移動して、彼女の背中側に立ち、彼女を振り向かせると手を差し伸べる。
「踊ろうか?」または「この手を取ってくれるかい?」と、彼は上目遣いで彼女に問いかける。

       「お嬢さん、お手をどうぞ……」

 伯爵の「ゲートウェイ」は、まだ赤と白の点滅を繰り返して葛藤を続けている。
 心は決意を固めたが、生存を求める吸血鬼の肉体が抵抗を続けている。
 伯爵は彼女を背中から抱きしめ、首筋に顔を近づける。
 鏡に映る、いや、鏡に映らない自分の姿を見て、伯爵は薄く微笑むと彼女の首に顔をうずめる。
 だがこの時、白い枠の中の伯爵が映る。
 彼の「善なる人間性」が、吸血鬼の肉体に勝ったのだ。
 鏡に映らない吸血鬼としての事実が、彼の「善」に力を与えてしまった。
 彼のあの微笑みは、自虐の笑いのようなものだ。
 同時に『前編』《楽曲内、ギターの最後のフレーズ》で書いた、主音の半音下の「ソ (G) 」が鳴る。
 伯爵の生存への飢え、エクスタシーへの飢え、そして愛への飢えが、決着することなくこれからも続くことを、彼自身が決めてしまったのだ。

       最後のゲートウェイは、「人間の心」の白


 彼女がふと目の前の鏡を見ると、彼女以外誰もいない。
 驚いて振り向いた彼女に、伯爵は背を向けて、赤い窓の前に立っていた。
 色は赤いが、ステンドグラスの窓という「装飾された人工の赤い色」だ。
 伯爵はその「人工の赤い色」を背景に、突然、彼女に向かって目を剥き、牙を剥き出して、少し滑稽な表情で彼女を脅す。

「帰れ! ここは君の来る場所じゃない」

 伯爵は、彼女の勇敢さと決心に心を打たれ、彼女を自分の仲間に出来ないほどに愛してしまった。
 だから、彼女をもとの人間の世界に送り返すことにした。
 彼女の「エクスタシー」への願望、吸血鬼の愛人になるという、ある種の女の子の「夢」を、半分だけ叶えてやるという優しさを見せて。

「君には、私のインタビューを取った最初のジャーナリストという贈り物をあげよう。そのかわり、人間の世界で人間として生きていけ。それが君の本当の幸せなのだから。ヴァンパイアのような不幸な存在は、この屋敷の住人たちだけで充分だ」

 伯爵の真意を、彼女は理解しただろうか。
 彼女がその後、伯爵からの贈り物を使って名のあるジャーナリストとなり、新聞や雑誌に彼女の名前が何度も掲載され、それを見ることがこの伯爵の生きる縁(よすが)になる日は、来るだろうか。



【女の子のための"天使"になりたい男の子】

 とまあ、このようなストーリーではなかろうかと妄想しながらMVを見ていて、ときどき私は自分のこの妄想で「伯爵、かわいそう……」と、うっかり涙ぐんだりしてしまうという馬鹿をやっている。
 なぜかというと、このMVでディマシュが演じる伯爵のキャラクターには、『タイタニック』でローズを助けたジャックが混ざっているような気がするからだ。
 そういえば、ディマシュ本人が好きな映画に『タイタニック』をあげていたことがあった。

 映画『タイタニック』の監督であるジェームズ・キャメロンは、他にも『ターミネーター』『アビス』『ターミネーター2』『アバター』など、だいたいどの作品でも、男性が自分の「自己犠牲」によって女性や人類などを救うというストーリーばかり作っている人だ。
 ディマシュは『タイタニック』だけでなく、キャメロン監督の映画全般が好きだと言っていた。
(昨年のトルコ・コンサート前日のインスタ・ライブにて)

 ふーん、って思うじゃん?
 ディマシュ、君もなのかい?って。
 この曲が最初に演奏された『香港ライブ版』のNOTE感想記事の中で、
「ディマシュは、彼の歌を聴く我々の"天使"だ」
と書いたけど、その当のディマシュ本人に、
「女の子のための"天使"になりたい男の子」
という隠れた願望を持つ側面が、実際にあるのかもしれない。

 また、現在「ジェンダーヘイト」というか、男性は女性を、女性は男性をお互いに敵視するような風潮がある中、このMVを見ていると、こんな風に女性を大切に扱う男性のストーリーや、ふたりとも簡単に恋に落ちちゃう単純で正直な関係性、自分の幸福よりも相手の幸福を願うような純真なキャラクターを見るのは、なかなかに心洗われるような心地がする。

 そして、このMVでの「吸血鬼」という立場に、ディマシュ本人の立場を重ね合わせることも出来てしまう。
 彼は自分のことを「dearsの愛に飢え、彼らの愛を生き血のように啜って生きる、ヴァンパイアみたいなしがない音楽家」などと考えたりしてないか?とか。
「こんな奇妙でどっかおかしくて突然変異みたいな自分の、突然変異みたいな音楽をわざわざ好きこのんで聴いてくれて、コンサートに来たり空港で出迎えたりしてくれるdearsに、とにかく誰よりも幸せになってほしい」などと思ってないか?とか。
 僕はほんのつかの間だけ、君たちに「音楽」という夢を与え、半分だけ、君たちの願望をかなえてあげられるけど、そのあとはちゃんと自分の人生を生きるんだよ、と。



【MV全体の出来の良さ】

 それにしても、一昨年の『ワンスカイ』も大概ものすごい出来だったが、このMVも、まーとんでもない出来栄えだ。
 映像もストーリーも音楽も、文句のつけようがないほど美しく仕上がっている。
 一片の隙も無く統一された雰囲気、文化の設定と時代との「混合」を見せる時の、大道具小道具の配置や選び方。
 時価22億円もする豪華な内装のホテルをロケ地とし、その豪華さに見合った衣装と、美女たち。
 そしてこの豪華なホテルや豪華な美女たちでさえ凌駕するかもしれない、ディマシュ本人のゴージャスさ。

★ official_dimashjapanfc のIGより 2月29日付 #Repost @andreana.tk
(5ページ目のモノクロ写真をご覧下さい)


 さらに、サウンドの意味と場面の意味の重ね方、人物の心理描写をサウンドでやってしまうなど。
 これも『ワンスカイ』で既に知ってはいたが、さらに繊細な描写になっていて、いやースゴイなあと思った。
 各シーンの構図も分かり易くて、どの場面にも違和感がない。
 これだけのカット数を撮るのに、いったいどのくらいの時間と労力がかかってんだか……。
 また、けっこう重要だと思うのが、カメラの切り替えが、音楽のリズムにちゃんと合わせてあることだ。
 歌詞のフレーズの最初の1拍目に合わせてカメラが切り替わったり、フレーズの途中ではいつでも、1小節の中の4拍目(24ビートのうち19~24ビートのどこかの決まった箇所)で切り替わっているような気がする。
 なので、忙しいカメラワークだけど、見ていて苦にならない。
(MV文化初期のカメラワークは、そりゃーもうヒドイもんだった)
 おかげでMVを見ている間は、ディマシュの歌唱にあんまり注意が向かなくて……。
 おかしいな、これは音楽MVのはずなんだがな。



【ディマシュの役者ぶり】

 そして、やっぱり何といっても、ディマシュの「なりきり」の凄さだ。
 君、最初からヴァンパイアでしたか?みたいなハマり具合だ。
 それは、彼がカバー曲を自分の表現にするだけにとどまらず、原曲で描かれた人物像に憑依したかのような表現力を持っていることからも明らかではあるのだが、こうも見せつけられますとね。
 伯爵が、暖炉の部屋にやって来た彼女に手を差し伸べる時の表情とか。
 伯爵が、自分の姿が映っていない鏡を見て浮かべる微笑みとか。
 伯爵が、彼女の首筋に顔をうずめていく時の表情とか。

       鏡に映る自分を見ている伯爵
       雷の光に照らされた伯爵の目は、よく見ると青く光っている
       (うっとり……)


 でもそれ以上に凄いと私が思ったのは、彼女が鉛筆でノートにグルグルを描いてる時、伯爵が椅子に深く腰掛けて、彼女の様子をじっと見ている姿。

       (カ……カッコいい……)


 それから、暖炉の横で椅子にじっと座っている時の姿。

       伯爵のこの、椅子に座ったポーズが特にカッコいい


 動いてもいないし、歌ってもいないし、ただそこにいるだけなのに、ものすごい存在感の圧。
 すでに700年ぐらい生きてます、みたいな堂々たる貫禄ぶり。
 大型の野生動物が息をひそめて「獲物」を待っているような、でもそこには一抹の「憐れみ」や、「罪悪感」を感じているかのような雰囲気もある。
 見事な「何もしない」演技だと思った。



【正式レコーディングの歌唱】

《簡単なメロディは難しい》

 今回のディマシュの歌唱の特徴は、転調無し、ウィスパーほとんど無し、オクターブ5どまりの高音、2小節に渡る低音の長いグロウル(唸り)。
 全体的に、いつもより落ち着いていて端正な感じだ。

 歌のメロディ自体も、いつものディマシュの歌に比べると、わりと簡単で単純な方だ。
 だけど、簡単な歌を歌うのは、とても難しい。
 長い音符をどう歌うのか、フレーズの最後の処理をどうするのか、強弱のコントラストをどこでつけるのか、繰り返されるメロディをどう変化させて歌うのかなど、細かい処理を怠ると、あっという間に退屈な歌になる。
 だが、ディマシュのこの歌唱には、退屈するスキが一瞬もない。
 これは本物の歌唱力が無いと出来ない、非常に高いレベルの表現だ。

《外へ向かう声》

 そして、今回はなんとなくだが、3分の2歩ほど「視聴者側に近寄った」ような感じがある。
 あと3分の1歩ほど近寄っていないのは、あの超絶早口英語のランの箇所なのだが(いまだに覚えられない🤣)、その箇所が逆に非常に活きる構成にもなっている。
 その事によって、今回のディマシュの歌には、いつも以上に外へ向かって懸命に何かを訴えているような印象を持った。
 こちらはすっかりMVの映像に気を取られていて、MVを見終わったあとには、歌を聴いていたつもりはなかったはずなのに、その訴えの熱意がものすごく伝わっていた、という感触が残るのだ。

 そして面白いことに、この曲を聴いたあとでディマシュの過去の曲を聞くと、もーのすごく新鮮に感じるという、お得なオマケもついていた。



【ビブラートの変化と、大衆性】

《ディマシュがアメリカでなかなかウケない理由》

 1年以上前のことだが、アメリカ人の女性歌手が音楽ディレクターと一緒に、ディマシュの歌や他の何人かの男性歌手の歌を聴き比べてディスカッションするというリアクション動画を見たことがある。

 彼女が言うには、現代音楽、とくにアメリカのポップス/ロック系の歌唱には、ロングトーンやベルティングにビブラートをつけないそうだ。
(声を伸ばしていくうちに自然発生的に起きるビブラートは除く)
 だがディマシュは元々オペラを学んでいたため、ロングトーンの最初から大きめのビブラートをつける歌唱をする。
 これが、特にアメリカ人の耳にはなじみが無く、「大げさすぎる」と感じるため、ディマシュの歌の上手さそれ自体には感心するものの、現代音楽とは聴こえないと彼女は言っていた。

 それを聞いた私は、ディマシュのあのビブラートがある限り彼はアメリカでは受けないのだろうか、または、彼はいつか、あのオペラ的ビブラートを使わないで歌うことが出来るようになるのだろうかと、いぶかった。

 だが、今回のディマシュのロングトーンには、この「オペラ的な、大げさな、最初からの」ビブラートがほとんどないのだ。
 しょっぱなの「Making my way」の「waーy」に始まって、プレ・コーラスでの各フレーズの最後のロングトーン、コーラスではビブラートというよりもR&B系の細かいフェイク(こぶし回し)を多用し、ヴァース2では「Making a name」の「name」をすーっと伸ばすところ、などなど。
 フェイク以外のビブラートも、決してオペラ的ではなく、普通に歌ったら生理的についてしまう声の震えや、音響学的に発生するビブラート、個人的な癖としてのビブラートに聴こえる範囲に収まっている。
 そしてこの歌唱法は、ギター奏法にも敷衍されている。
 ギターのサウンドにも、ビブラートがほとんど無いのだ。
「ロングトーンが、真っ直ぐで長い」
 これは、もしかしたらディマシュがLAで習得した、一番大きな「何か」だったのではないか、という気がする。

《新MV発表後の反響》

 そのためかどうか分からないが、このMVは南米や東欧などの複数の国でYouTubeトップ100に入り、いくつかの国で1日以上トレンド入りしていたという。
そのことについてインスタのdears達が大騒ぎしていたので、今まではそこまでの一般的なヒットはディマシュに無かったのかもしれない。
 そのdears達のこの曲への反応も、香港ライブで歌が初披露された時から、いつもとかなり違って、熱に浮かされたようなこの曲への愛着が彼らに起きていた。

 感覚的な印象だけなく、数字的なデータも見てみよう。

 この新MVは、日本時間の3月5日午前1時過ぎに、動画視聴回数が「100万回」を突破した。
 YouTubeでの新MV発表は、日本時間の2月26日18時30分。
 7日と6時間30分での到達だった。
 一昨年の2022年9月に発表された超大作MV『The Story of One Sky』の「100万回」到達は、発表から8日と16時間後。
 新MVはそれより約1日早く到達してしまった。

 もう少しデータを補足すると、2023年4月に発表された『Together』のYouTube動画は、発表後7日目の再生回数が35万回、10カ月で131万回再生された。
 続いて同年5月に発表された『OMIR』は、9カ月で138万回再生。
 アクティブなファンの視聴回数がほとんどを占めるであろうこの2曲は、そういう数字なのだ。
 だがこの2曲の数字を大幅に上回っていた『ワンスカイ』よりも、今回の新MVはさらに数字を伸ばしつつあり、特定の回数への到達速度がさらに早くなっている。

 つまりこの新MVは、「発表後1週間以内」にこれを視聴した人が、YouTubeを見に来るアクティブなディマシュの固定ファン以外に(超・単純計算で)50万人近くも多くいた、という計算になるのだ。



大衆性とディマシュの「覚悟」

 あれほど頑固に大衆性を拒否していた(ように見える)ディマシュだったが、どうやら彼独自の歌の世界の研究・追及を、彼はやっと終えたらしい。
 当のディマシュにとっても「ディマシュ・クダイベルゲンのラビット・ホール」は、探索し終わるのに29年もかかるほど深かったようだ。
 彼はようやく本格的に「大衆」、特にアメリカに向かって音楽を発信する気になったのかもしれない。
 それによってこの歌には、その奥深くに、彼が自分の何かを賭けているような「覚悟」が内包されるに至ったのかもしれない。

 もちろん「大衆性」や「アメリカ」が全てだというわけではないのだが、そこを通り抜けることによって、大事な何か、何らかの叡智を得るための「見知らぬどこか」に通じる川へと行きつくこともあるのだ。
 これほどの才能を持ち、これほどの鍛錬を積んだ音楽家が、音楽の可能性を貪欲に追求した結果、対立する芸術性と大衆性をどのようにミックスし、最終的にどんなところへ行きつくのか、その道筋を私は見たいと思う。

 がんばれディマシュ。
 がんばれ、ディマシュの音楽。

 でも、私は確信しているぞ。
 なにせ、今まで一度でも私の「お気に入り」になったアーティストやバンドは全員、歴史に残るヒット曲を出している連中なのだ。
 そして、ディマシュ!
 君は、私が今までに発見した彼らのなかでも、群を抜いてぶっちぎりで、一番の「お気に入り」なのだから。


       「(フフフ……知ってたよ)」




(『後編』終了 / 全編、終了)

・著作権により無断転載及び保存を禁止します。
・スクリーンショットは全て、ディマシュのYoutube公式を使用しています。

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